hasihiro25のつぶやき

長野県の、しがない派遣社員。ゲーム、ニュースの感想などつぶやき

“世界”は“世間”になったのか?

小林よしのりゴーマニズム宣言】の中で、
メディア社会について記載されている会があったと思う。
 
9.11のテロとも関連して語られていたが……
 
 
「(メディアの拡大によって)
“世界”を“世間”に変えてしまったのは
他ならぬアメリカ自身だ!」
 
 
という言葉が、私は深く深く印象づいている。
 
 
半年ほど前に高校の友人と語り合った時に言われたのが、
「たとえどんなにメディアが進化したとしても、
同じ情報も受け取り手によって捉え方は違うのではないか?
 
単純に、“世界”が“世間”になったと言えるのだろうか?」
 
 
と投げかけられて、私も一瞬分からなくなってしまった。
 
 
 
 
 
確かに、9.11のテロ映像は衝撃的だったが
アメリカに反抗意識を持つ国々の一般市民は
「アメリカざまぁみろ」と歓喜に満ちた様子だったはずだ。
 
特に、それまでアメリカに虐げられてきたのに
アメリカ市民にはその存在すら知られていなかった国の人々にとっては
ざまぁみろ、という感情が渦巻いてもやむを得ないのではないか。
 
 
 
 
メディアが広がった世界が、良いとか悪いとかじゃなく、
もう「そういう世の中になったんだ」と考えるしかない。
 
健康情報やニュースや防犯知識が即座に手に入るようになった半面、
犯罪知識も簡単に共有されたり、
ニュースが模倣犯罪を生んでしまったり……
 
でも、メディアが<モンスターペアレント>を批判するようになった昨今
逆に給食費を払わない親が減ったり…
(世間が自分たちを向いてないことが分かると、姿勢を正す人間もいる)
 
「赤ちゃん抱かせて」と近づいてくる女…赤ちゃんの足が骨折していた事件。
ケータイコミュニティ上で注意喚起をよびかける回覧メールも回ったらしい。
 
小島よしおも、コメディアンだから頑張ってギャグを考えているんだろうけど、
「そんなの関係ねぇ」は、
当時の非行少年たちが犯罪行為をするのに
己を鼓舞するのに叫びまくった台詞にもなってしまった。
 
メディアを単純に、良いとか悪いとか言っていられる場合ですらなくなった。
 
 
 
 
 
 
さて、それ以外にも最近考えていたこと。気になったこと。
 
 
神田うの の離婚報道。
現在は、個人がブログで意見を言える時代。
「夫が風邪をひいて、
【風邪を移すといけないから、実家に帰ってね】と夫が言った。
だから実家に帰って、そのことを記者にもきちんと話したのに、
翌日には離婚報道になっていた。もう呆れています」
 
芸能報道のウソは、どんどん暴いてやればいい。
記者会見場で関係のない・品の無い質問をする記者など追い出せばいい。
まぁ、記者は記者でそれが仕事なんで
不本意ながら働いている人には気の毒ですが……。
 
 
 
・(友人が数年前に考えたネタ)
無政府主義者による政府樹立】
……無政府主義者が政権を打倒しても、
結局何かしらの政権になってしまうということ。
 
 
・世界資産の38%は、1120万人の人が握っている。
資産100万ドル以上の人は、前年に比べ14%増だという。
 
 
 
 
●倫理に関する疑問?
 
遺伝子の操作はどこまでやっていいの?
NHKの爆笑問題の番組の中で語り合っていた内容を考えていた。
 
 
⇒自然の摂理の範囲を越えて操作してはいけないんじゃないか
 
⇒人間の科学も、現実に実現させているんだから
それも宇宙の法則の一部分と考えたら、
「何をやってもいいんじゃないか」と考えることもできるのではないか
 
世の中は、正規分布ではなく<ベキ関数>で動いている。
「統計的にあり得ない例外値」が、全体の数字の大半を作っている。
 
 
 
最新科学だと、
【肉】を人為的に作り出せると言う。
(ごくわずかだが…)
将来、宇宙食を考える上で貴重な科学分野だという。
(肉1kcalを生産するのに、どれだけの草が必要か。
ライオン1頭は、年間1000kgの肉を食べているので、1000÷200=5で、シマウマ5頭分
シマウマ1頭では、年間3600kgの草を食べるので、5頭では3600×5=18000kg の草が必

要。
1km2あたりの植物は528000kgなので、18000÷528000=約0.034で、0.034km2)
参考:http://www5a.biglobe.ne.jp/~bebeshi/main/cS/cS_001.htm
 
 
 
 
 
他にも視点を変えると、
 
・日本の文化は武士を大切にする文化だというが、
武士は滅びるべくして滅びた種族ではないのか?(友人談)
 
 
 
・商店街についての考え方
⇒商店街の危機だと言うが、
大型店舗が出店して何が悪いのか?
小型店に人が来ない、需要が無いなら、
それが自然の流れではないのか?
 
⇒大型店に人が来るのが「自然の流れ」なら、
それに対抗して商店街復興運動がおこるのも、「自然の流れ」じゃないか?
宮崎の口蹄疫が大変だと言ったら、
ただそのままにせず「支援しよう、ボランティアで助けよう」という考えが出てくるのも


それも「自然の流れ」じゃないか?
 
 
なんでもありになってくると、
何が「自然の流れ」で「何が許されること」で、
何を目指せばいいか考えが堂々巡りになってくる……。
 
 
かつて哲学者が、「我思う、ゆえに我あり」と一旦結論づけたのに、
その後世の哲学者は、
「私がいる、と疑っている私は本当に実在するのか?」と問いを立てて
結局結論の出ない哲学の迷路にはまってしまったかように、
 
私も、「どこまでが倫理なのか?どこまでが許される行為なのか」
とか考え始めたら堂々巡りになってしまった。 

 
 
浅川ダム建設の時にも、「与件」という言葉があったけど、
土台の前提は疑い出したらキリが無い。
これは代えがたい前提部分だ、与件だと決めない限りは
物事は先に進まない。
 
 
人間の科学の扱い方、商店街の支援の仕方、
どこまでがしていいことなのかどうか
今一度 自分の中で整理したいかな。